石巻市雄勝町の人々


日々の仕事

漁師達の朝は早い。朝5時には大量のペットボトルやタンクを持って近くの綺麗な沢水を汲みに行く。そして無尽蔵に転がっている家の柱の残骸を拾ってきて、鋸で切りドラム缶の薪にする。それが終わると清水さん宅で温かく美味しい朝飯をご馳走になる。毎日11人と村を出て行くので当初清水宅に避難していた50人以上の人はこの日は8人まで減っていた。交番を流された警察官の佐藤さんも隣で味噌汁をすすっている。

7時過ぎになると佐藤さんはパトカーで遺体の捜索や巡回に出動し、他の者は石巻の町にアパートを探しに行ったり、それぞれの仕事に向き合う。家財や家を修復する仕事は無い。どちらも流されて無いのだから。僕は20分ほど離れた雄勝町役場にバイクで出勤する。出勤と言っても誰かから特に仕事を指示されるわけでもない。大概まずは瓦礫や釘でパンクした車のタイヤの修理依頼が待っている。

ある時は自分の車のパンクを直すと今度は佐藤さんにパトカーのパンク修理と長靴の穴あき修理を依頼された。パトカーは直せたけれど長靴は無理だったので自分の長靴を提供した。“マセさんの連絡先を教えて下さい”と警察手帳を指し出されたのを断ったが、規則だからと言って深々とお辞儀をされた。いつもはサイレンを鳴らされて説教される立場なのに不思議な気持ちだった。

それが終わると役場から依頼される広報のコピーや新聞、時には支援物資などを持って20以上ある避難所や個人宅を回った。困りごと、心配事、悩み事を何でも聞いた。水没したバイクの修理、車の修理、薬の調達、要望されたおばあさんの簡易トイレも隣町から調達してバイクに載せた。あちらこちらで30分でも1時間でも気の済むまで話を聞き、共に考え、悩み、笑った。

おばあさんの涙

3週間食事も睡眠も取れずにいたおばあさんの涙の訴えは重かった。他の人と同じように家も海の仕事も全て奪われていた。現金収入のために年金を全てはたいてシメジの栽培を始めようと思いついたが、キノコ業者への予約期限は切れているし、電話も無いから連絡もできないでいた。携帯電話の中継局も被災しているから、唯一の外部との連絡手段はNTTが役場に用意した衛星電話だ。しかしそれもつながらない。結局100km離れたキノコ業者の町まで瓦礫の中を抜け、夜遅くまでバイクを飛ばした。キノコ業者も被災して施設が全壊していたが、“おばあさんの為に1ヶ月で復興させるから安心してくれ”と言ってくれた。今度はおばあさんは喜びの涙を流してくれた。

結束力

“船越の清水さん宅に居るマセさんでしょ?ご苦労様。”ある役場職員に初対面でそう声をかけられてびっくりした。彼も船越地区の被災者だというので噂は直ぐに広まるのだろう。ここでは同じ地区というだけで地区会長や消防団長を中心に都会では考えられない強烈な結束力を持っている。それは日常生活ではプライバシーが無くて煩わしいこともあるようだが、災害時には凄い力を発揮している。各地区の会長さんに連絡事項を伝達、或いは物資を配達すればそれが浸透するし、下からの情報も集約されて上がってくる。個人は地域の為に。地域は個人の為に。そんな考えが深く浸透している。だから被災を逃れた家が当たり前に避難所として開放され、皆が持ち物を出し合い、炊き出しなどの役割分担で支え合う。皆で泣き、励ましあい、遺体が判明すると共に喜ぶ。震災後に東京で立ち寄ったスーパーで見た、人を押しのけて食料を買いあさるおばさん達を見たとき、どちらが不幸な人達なのだろうか考えさせられた。被災者は財産は失ったけれども少なくとも心の豊かさまで失ってはいなかった。

避難者との関係

ある個人宅の避難所に顔を出すと“おっ何でも屋の兄ちゃんが来たぞ”と言って雑談が始まった。“バイクの修理代いくら?”“3億円に負けとく。”“そんなら俺たち『ザ避難民』って芸名で吉本からお笑いデビューすっから大金持ちになって直ぐ返せるわ。”と言って息の合った踊りを披露してくれて大笑いになった。“最初はよ、ずっと皆で泣いてばかりだったけど、そろそろ前向かないと駄目だっぺ。テレビよく見とけよ。”そう言って最後の別れ際には今年最後の、そして今後510年はもしかしたら獲れない地元産の貴重な高級昆布を箱ごと持たせてくれた。他でもお茶や食事に呼ばれることも何度もあった。目を赤くしてボランティアの車を止めてお茶を差し出すおばさんもいた。支援する側、される側と言う関係ではない。災害があろうと無かろうと礼には礼を尽くそうとする当たり前の人間関係があった。

自立心と和の心

東北の人は我慢強く奥ゆかしいと言われる。特に漁師町の雄勝町の人はそれが強いのかもしれない。困りごとや必要なものを尋ねると殆どの場合 “大丈夫だ。”という答えが返ってくる。手の爪をノコギリで切っていた人に“爪切り有りますから持ってきます。”と言うと“大丈夫だ”と返ってきたのが印象的だった。確かにノコギリでも頑張れば用は足せる。だから“大丈夫”なのだ。無いものは求めない。あるもので何とかする。電気ひとつ無くなってパニックになってしまう都会の人とは違う。そういう人間力のある人達なのだ。

中村さんが言っていた。“最初の数日間は地域が孤立して食べ物や燃料が無くてどうしても困っていた。そのとき静岡県焼津漁港の漁師仲間の船や海上自衛隊に物資を提供してもらえたのは本当に有りがたかった。でももう十分だ。何も欲しいものはねえ。家も車も仕事も船も養殖施設も金も全部無くなったけど、もう大丈夫だ。俺たち自立した海の男だから丘の人間みたいにいつまでも人の世話になるわけにはいかねえ。自分たちで生きていけっから。しばらく石巻に出て体制立て直したら戻ってきて絶対やり直して見せる。マセはよう、来てくれて本当に嬉しかった。でも物を持ってきてくれなくても何かをしてくれなくてもいいんだ。ただ俺たちのところに来て俺たちの話に耳を傾けてくれて、消防車の中で俺の話相手になってくれただけで本当に嬉しかったんだ。俺、今まで阪神大震災とか他人事だったんだ。まさか俺が被災者側にまわるなんて思ってもいなかった。援助される側なんてな。でももし今度どっかで被災している人がいたら俺ぜってえ駆けつける。マセはこの惨状をカメラで撮りまくってお前の地元に帰って皆に伝えてくれ。カメラを向けるのを躊躇しなくていい。むしろ俺たちはこれを皆に知らせて欲しいんだ。津波の恐ろしさを。俺は津波をなめていたんだ。これが俺がマセにここでやってもらいたい唯一の仕事だ。もう俺たちは大丈夫だからマセも地元に帰れよ。お前も疲れてんだから気をつけて帰れよ。途中で事故で死んじまったらつまらねえからな。お前の結婚式にはぜってえ行くから。来てくれてありがとう。”

そうして清水さん宅避難所の最後の人が船越地区を撤退する日まで部落の入り口に止めた消防車で寝泊りして地域を守り、石巻の土葬場の墓番号70の前にある仮設住宅に旅立って行った。

中村さんが出た後、谷の向こうの避難所で中村さんの話題になった。“中村はよお、イビキがものすげえから消防団の旅行のときは冷蔵庫の中に頭突っ込ませて寝かせたんだ。70番の仏さんもうるさくて墓から出てきちまうぜ。”もちろん地域のために頑張ってきた中村さんへの親しみと信頼が込められているのが伝わってくる。地域の人が尊敬と厚い信頼の輪で結ばれている。“ここの寺の坊さんも流されちまったから、お前なら髭剃って黒い服着れば坊さんになれるから残れよ。”ちょっと濃すぎて厄介だなと思う反面、猛烈にうらやましく心が引かれる。どこかで感じたことのあるこの想い。そう、南米ボリビアのオキナワ第2村で感じた感覚だ。日本では絶滅寸前と思っていた古き良き日本人の和の心、絆の社会にこんな所で出会い、再び豊かな気持ちにさせられた。僕が彼らに与えたものより、彼らからもらったものの方が大きい。僕にとっては雄勝は被災地というよりも、そんな濃い豊かな空間だった。