ボリビア軍との遭遇


ボリビアの田舎道とは道ではないこともある。道路があるわけでもなく車が通ったところが道路になる。この日は両側に美しい高山を見る広い谷そのものが“道”だった。谷には無数にタイヤの跡が付いていてどこでも走ることが出来る。走りやすい轍を見つけてバイクを走らせるのだが、時にはそれがとんでもない方向へ向かっていて迷子になることもある。看板など先ず無いが、あってもボロボロで役に立たない。
 ある時、僕はチリとの国境付近に迷い込んでしまった。そこにはボリビア軍の国境警備基地があって、犬と兵士が飛び出してきた。直ぐに道を間違えたことに気付いたが慌ててUターンしても怪しまれて面倒なことになるかも知れない。道でも聞いてみようと緊張しながら近づくと意外なことに彼らは喜んでいた。基地の隊長と思われる男が出てきて中を案内するから休んで行ってくれと言う。そこは彼を含めて兵士5人の小さな基地だった。建物の中には野戦病院のような粗末なベッドが並ぶ部屋、通信室、倉庫、調理場、食料倉庫、そして中央にテーブルと椅子が置いてある寒々しい居間があった。食糧倉庫の中は寂しく、とても5人が豊かに食べているとは思えなかった。外の池では魚を飼って半自給自足生活をしているようだった。そんな貴重な食料の中から隊長は部下に食事を作らせ僕をもてなしてくれた。パサパサのパンに焼いた卵を挟んだハンバーガーと目の前の小川で汲んだ水に粉末ジュースを少量混ぜた色付き水だ。それが彼らの最大級のもてなしであることは僕には分かっていた。僕と隊長は机を挟んで向かい合って座り長いこと話をした。それを聞き逃すまいと残りの4人の若い兵士が囲む。
 この頃には僕はかなりの会話が出来るようになっていた(と思っている)。と言ってもスペイン語が話せるわけではなく、ブラジルで覚えていた片言のポルトガル語と旅の最中に少しずつ増やしていったスペイン語の語彙を混ぜた“ポルトニョーロ(ポルトゲース+エスパニョーロ)”に英語の単語から連想して自分で勝手にスペイン語っぽく作った“俺語”とジェスチャーを交えたものだった。聞く方は話す方よりもっと難しかったけれど、話題が特定できれば分かることも多かった。
 最後に隊長の提案で記念写真を撮ることになると、それまでTシャツ姿だった兵士は上着を、隊長は帽子からブーツに至るまで戦闘服に着替えたが最後に思い直して帽子は僕の頭の上に載せた。驚いたことに彼らの一人がデジタルではないがフィルムカメラを持っていた。外に出ると僕のバイクに跨り、ヘルメットを被って記念撮影が続く。その笑顔は兵士のものではなくどこにでもいる若者の笑顔だった。若い兵士は20歳前後、最年長の隊長でも27歳だった。
 ボリビアの貧しい田舎に生まれた彼らには人生の選択肢は限られている。日本人のように親の脛をかじって学校に通っている場合ではない。生きるために軍隊に入るというのはその選択肢の一つだ。話をしていて頭が良い男という印象を受けた隊長でさえも高い教育は受けていないだろう。“日本の国境警備はどんな感じなの?”と聞かれたとき“日本は島国だから海が国境なんだよ”と話すと彼は驚いていた。
 僕は彼が会話の中で何度も何度も繰り返し言ってくれた言葉が忘れられない。“この基地を訪ねてくれて本当にありがとう”僕は訪ねたわけではなくただ迷い込んだだけなのに。その言葉が彼の本心から出たものであることが僕には分かる。彼らはここに赴任して3ヶ月経つが、それ以来僕が初めて見る人間だというのだから。

 ボリビアに入る前に、ボリビアに行ったことのない南米人に“ボリビアは貧しくて危ない国だから行かないほうが良い”とか、“気をつけろ”、という忠告は聞いていた。確かにボリビアは今回僕が旅した国の中で1番貧しいかも知れないけれど、少なくとも僕にとっては人々は素朴で優しく、素晴らしい人にたくさん出会った。僕は他の南米人同様にボリビア人も大好きだ。