悪夢


悪夢は突然やってきた。険しくも美しい森の道を走っている最高の気分のときにそれに気が付き頭の中が真っ白になった。ガソリンタンクのキャップを開ける鍵が無くなっているのだ。前のオーナーがタンクキャップを交換していたと思われ、鍵はイグニッション用とは別だった。紛失しないように二つの鍵はキーホルダーのリングで一つにまとめていた。それがどういうわけかリングが外れキーホルダーごと無くなっていた。
 走ってきた道を超低速で地面を見ながら引き返す。最後にガソリンを入れて130km走っていたし、地面の砂利や土の中から見つけるのは奇跡に近かった。最後に通過した大きな町コヒアイケではバイク屋すら無かったから鍵屋も無いかも知れない。そもそもコヒアイケまで燃料が足りなかった。もちろん予備のタンクにガソリンは持っているのだけれど、鍵が無ければそれも入れられない。そして北の大都市プエルトモンまでは600km以上もあった。森の中にポツンと1軒だけ建つボロ小屋に住んでいる仙人のような人に助けを求め、針金や工具を借りてピッキングを試みるも鍵穴を悪くしてしまうだけだった。日も落ちてきたので近くの部落の公園にテントを張って真剣に悩んだ。公園の隣の診療所へ行き事情を話し注射器を分けてもらった。鍵穴から注射器でガソリンを入れようとしたが上手くいかなかった。ガソリンタンクを取り外して逆さまにし、ガソリンコックを取り外した小さな穴から注射器で入れることには成功した。しかしタンクを逆さまにしているとキャップからガソリンが滲み出てきてしまうし、気が遠くなる作業だったのでこれも諦めた。この夜は絶望と悲しみと焦りと自分への怒りで食欲が無く2時間しか眠れず、夜明け前から新しく考え付いたアイディアの実行に取り掛かり始めた。タンク側のパイプの穴が小さいので、パイプに道路に落ちていたゴムバンドを巻いて、ここに拾ったペットボトルの口の部分を差込み、ボトルを切って漏斗にしガソリンを注いだ。これが上手くいった。少し時間が必要で多少漏れてしまうけれど何とか給油することができた。60kmほど更に戻って探したが見付からなかったので諦めて先に進むことにした。
 その後プエルトモンまでガソリンスタンドに立ち寄る毎にガソリンタンクを外して下から給油する儀式を繰り返した。今回の旅でこれが最大の難関だったと笑える日が来ると信じていたけれども、今にして思えばこれが悪夢の始まりだった。