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   会社員時代とのお別れ


2007.11.22〜12.12 ブラジル
サンパウロ (Sao Paulo)

2007年11月、日本をたち26時間の飛行機に耐えて23日の朝にブラジルのサンパウロへ到着。ブラジルには、出張で3回、延べ4ヶ月ほど滞在経験がある。だから、空港に降り立っても、新鮮な感動はもうない。でも今回は今までとは全く違う心境でこの地にいる。なぜなら、2ヶ月前に13年間勤めたヤマハ発動機を退職し、南米をオートバイで旅するために来たからだ。

会社員生活はなるべく早く切り上げようというのは、学生時代からずっと決めていたことだ。ゆっくりとした自分の時間を楽しみながら自分にしか出来ないことで社会に貢献し、生きていることをより実感できる生活をしたい、出来れば海外で。そんな漠然とした夢があった。でもせっかく日本に生まれ、大学で機械工学を学び、大企業に就職する機会があり、モノづくりの感動を味わいたいという一つの夢をかなえるチャンスに恵まれているのだから、この機会を逃すのももったいないと考えて短期間のつもりでスタートした会社員生活。しかし実際には物事は思うようには進まなかった。予想外の嬉しい誤算が続いた。

東京で過ごした大学時代に見た、満員電車に揺られ無表情な青白い顔をしてコンクリートジャングルを行き交うサラリーマンとはあまりにもかけ離れたサラリーマン生活だった。のどかな海山川が直ぐそばにあり、公私共に大好きなオートバイと共にある生活。仕事でバイク用の皮つなぎやヘルメットはボロボロになるまで着たけれど、ネクタイの結び方はいまだによく分からない。もちろん物作りの達成感を味わえる様な仕事を経験できるまでには長い年月が経ち、楽しいばかりでは決してなかったけれど、それでもバイクとバイクが好きな愉快な仲間の居る場所に行き、物を作り出す仕事をするというのはまるで小学校へ通うようなわくわくする感覚だった。趣味の世界も最高の仲間と環境が整っていた。仕事のある平日でも朝少し早く起きて仲間と近くの河原でオートバイの練習をしたり、海にサーフィンをしに行ったり、仕事が遅くならない時は殆ど近くの山や茶畑へ自転車のトレーニングに出かけた。秋のシーバス釣りのシーズンになると、朝釣ってきた魚を職場に持ってきて魚拓をとって壁に飾り、その大きさを競い合うお茶目な職場もあった。“明日から祭りなので休みます”と部下、“ああそうか”と上司。祭りが盛んな遠州ならではのそんな雰囲気も好きだった。仕事はそんな趣味の延長線にあったけれど、皆、趣味と同じように仕事にも情熱的な人が多かった。もちろんバイクは趣味の道具でもあるから、作り手の遊び心は重要だったと思うが。僕の趣味の一つ、オフロードバイクレースの世界でも、ホンダ、ヤマハ、スズキのお膝元である遠州地方には会社の内外問わず、プロのライダーを含め、とんでもなく凄い人がうようよいた。とにかくそれぞれの分野のスペシャリストが集う面白い場所だった。

この人から技術を盗みたい、この人の世界をもっと覗いてみたい、この人ともっと楽しい時間を過ごしたい、そんな尊敬する先輩や仲間が思いもよらず次々と現れ、会社の去り時を難しくしていた。所属していた走行実験部の部長(故人)は、どこの組織でも見られる権力争いとは無縁に見えるオートバイを純粋に愛しているのが伝わってくる男で、部下の誰からも親しまれていた。オートバイへの情熱をくすぶらせていた僕を部下に引き入れてくれたのも、走行試験中に転倒した僕にバイクの事は聞かず“怪我は無いか?”とだけ聞いてくれたのも、3週間の休みを許可して海外のレースに行くのを応援してくれたのも彼だった。そんな人達のいる会社、オートバイへの夢とロマンを大切にするという、時代の流れで急速に薄れつつあるヤマハ発動機の社風の最後の瞬間にぎりぎり間に合った幸福を噛み締めていた。
 しかしサラリーマンという敷かれたレールに乗った生き方と自分の生き方のベクトルを合わせることの限界は見えていたし、遊び仲間も次々と家庭生活に奔走する時期に入り、更に自分自身のレースでの怪我などもあり、最後は秋の陽の様に一つの時代が急速にセピア色に変わってゆくのを感じていた。後ろ髪を惹かれる思いだったが、“次の夢へ進もう”という決心が揺らがないのは自分でも分かっていた。
 何かを手に入れるという事は何かを諦めるという選択でもある。手に入れようとするものの大きさが大きいなら大きなものを捨てなければならない。だからこれからきっと新しい大きな時代を手に入れるのだと思う。ありがとうヤマハ時代。