大津波に消えた町で


石巻へ

 石巻市街に入り、緩やかな下りカーブを曲がると風景は一変していた。瓦礫の山山山。ニュースで見てはいたけれど、実際に目の前に広がると違った印象に映る。自衛隊、日赤病院の車が目につく。何か戦場のような雰囲気だ。目的地の雄勝町に抜ける北上川の橋が通れないと聞いていたので、大回りだが女川方面を目指す。途中土葬場の脇を抜け女川町に入る。重機で掘られた土葬場は遠くから見ると畑の畝の様に何列も何列も続いている。そこに絶え間なく遺族やお坊さんが出入りしている。小高い丘から見る街は石巻以上の悲惨さだった。中心部にくしゃくしゃになった大きな鉄筋コンクリートのビルが残るが他は何も無い。高い土手の上にあるのは病院だろうか学校だろうか。そこもガラスが無く、自動車の残骸がおもちゃのように転がっている。湾の入り口で高さ18mだった津波は入り江の奥では30m以上とも言われている。雄勝町の大浜という地区は学校など大きな建物が無かったのだろう。元の景色を知らない僕には一瞬ただの開けた平野に見えるのだが、瓦礫の間に見え隠れする家のコンクリート基礎が、そこが密集した住宅街だったことを教えてくれる。

余震

“おいっ、マセ!清水さん夫妻をお前の車のベッドに寝かせて安心できるようにラジオを付けてやれ!”威勢が良く快活な43歳の若手漁師であり信頼される地元消防団員でもある中村さんの声だった。47日夜11時過ぎ、311日の本震に匹敵するくらいだったらしい大きな余震があった時のことだ。その時僕は石巻と南三陸の中間にある石巻市の旧雄勝町というエリアで支援をしていた。震災で死者、行方不明者が最も多いエリアだ。入り組んだリアス式海岸に集落が点在する漁業、養殖業の町だ。静かな入り江に150軒ほどあった雄勝町船越地区は跡形も無く流され、高台にあった数軒だけが残っていた。その1軒が清水さん宅であり避難所にもなっていた。長い長い1日が終わり、自分の車の寝袋に潜り込む前に、電気も無くなった廃墟の寒空の下で濡れたタオルで体を拭こうとしていた時だった。両側の切り立つ崖が崩れる心配が頭を過ぎったが、立っているのが精一杯だった。揺れが収まるとパンツ一丁なのも忘れて走り回った。清水宅では窓ガラスが散乱し玄関が開かない。皆の無事を確認すると直ぐに隣の谷にある別の避難所に向けて中村さんと軽トラックをぶっ飛ばす。あちこちで土砂や岩が崩れており、乗り上げて激しく揺れる車に必死にしがみつく。隣の部落では1人が足を複雑骨折していた。自衛隊や日本赤十字も常駐する数km先の大きな避難所へ車で運ぼうとしたらしいが、途中道路の大きな崩落があり、その夜彼らは戻ってこなかった。

経緯

そもそも東北地方には親戚も親しい友人もいなかった。まして雄勝町という地名など見たことも聞いたことも無かった。それは1本の電話から始まった。気仙沼市立病院の医師で宮城県災害対策本部に詰めているバイク仲間からだった。“マセちゃんの出番だよ。南米を一人でバイクでまわってみんなとアミーゴになっちゃう行動力を発揮する時だよ。”と久しぶりの会話にも関わらず興奮気味にまくしたてられた。道路が寸断されて情報が入りにくい雄勝町をバイクで駆け回って情報を仕入れてきて欲しいとのことだった。我ながら単純なものだと思う。南米の話の中で書いたように本来ボランティアや募金には参加しないことにしているのだが、おだてられれば木にも登る。仕事を切り上げ、ハイエースにバイク、燃料、水、酒、食料など物資を満載して現地に向かった。

船越地区

現地では直前に自衛隊が道路を開通させており、全ての避難所に何とか車で行くことができるようになっていた。だからバイクは降ろさず、先ずは車で様子を見て回り、行く先々で持ってきた物資を下ろした。雪の降る日没近く、道路をまたいでブルーシートの雨よけを張りドラム缶の焚き火で温まる数人の人達を見つけて“浜松から来た個人の者です”と言って酒を差し出すと“はるばるどうもありがとう。今日は何処に泊まるのですか?”“未だ決めていませんけれど車に泊まります。”“じゃあ一緒に飲んでいってよ。”“いや、ええと”“さあさあ座って”“じゃあ一口だけ。ゴクゴク。”“飲んだから運転しちゃ駄目よ。”漁師訛りの東北弁の彼らの会話に入るのは最初難しかったけれど、時折通訳を入れてくれたり気遣って話してくれたりと何処の馬の骨だか分からない僕を直ぐに皆が優しく受け入れてくれた。

そんな経緯で、雄勝町船越地区清水さん宅をベースキャンプとする風変わりな生活が始まった。出会った数人のボランティアの人達は、避難者の迷惑にならない場所で固まって自給自足の生活をしていたらしいので、寝床こそ自分の車とは言え、朝晩の美味しいご飯を清水宅でご馳走になり、焚き火を囲んで酒を飲み、そして消防車の中で寝泊りしている中村さんと消防車の中で夜まで飲み直す、そんな僕の生活は他のボランティアからも地元の人からも興味を持たれた。