ストリートチルドレンから始まった議論


サンチアゴのユースホステルのドミトリーでそのオーストラリア人ジョーダンに初めて会ったときに聞かれた質問が面白かった。“ボリビア人?”
 今まで中国人、ベトナム人、アジア系アメリカ人、メキシコ人に間違われたことはあったけれど南米人は初めてだった。ボリビアにこれから行くのがますます楽しみになった。
 彼は175cmの僕からは見上げるような長身で歳も13歳も若い大学生で、僕とは共通点が無いように思われたけれど不思議とお互い合い通じるものを感じていた。彼のオーストラリア英語は僕には難しかったけれど、色んな話題の真面目な議論は面白かった。

 ある夕方、彼と街の安い食堂街でご飯を食べていた時の事、ボロボロの服を着た5,6歳くらいのストリートチルドレン3人、男の子2人に女の子が1人、が店に入ってきて客にたかったり料理を失敬したりしていた。店員に追い出されると気にする様子もなく、じゃれ合って他の店へと去って行った。きっと彼らの日常の光景なのだろう。日本にも浮浪者は居るけれどもストリートチルドレンというのは見た事が無い。子供の貧困を見ることほど辛いものはない。

その夜、彼とボランティアや援助の事が話題にあがった。僕は殆どの募金活動には心を鬼にして参加しないし多くのボランティア活動には興味が無い。それは僕がケチな冷血人間だからではない。ボランティア活動に情熱を注ぐ人には尊敬の念を抱くし、頑張って欲しいと思う。困っている人が居たら人並みに何とかしてあげたいと思うし、故郷に帰りたいけれど金が無くて途方にくれていた浮浪者を車に乗せ、別れ際に飯代と残りの電車代として1万円を渡したこともある。

十数年前、アフリカスーダンで、餓死しかけている子供とそれを横で待つハゲタカを収めた写真でピューリッツァー賞を取って話題になったケビンカーターというジャーナリストがいた。彼はその賞をもらったお陰で世界中から非難を浴びた。写真の子供を救わず、その写真で自分は栄誉をもらう冷血で利己主義な男という非難だった。その批判は論点がずれていると思い納得出来なかった。彼はジャーナリストとしてスーダンの内戦による貧困という問題を社会に知らせるという彼の使命を立派に果たした。彼は批判について“自分にはハゲタカを追い払う以外何も出来なかった”と答えている。当にその通りだったのだろう。廻りにも同じような悲惨な光景が無数にある中で彼に何が出来たのだろうか。その時子供に水を与え命を1日引き伸ばしたところで次の日に何もしなければ死んでしまうだろう。その子を生涯にわたって面倒見るというボランティアであれば話は別だ。しかしその子供が成人するまで面倒を見たと仮定して、10人の子供を産んだとき、その子供たちを誰が面倒みるのだろうか。良かれと思う善意が次の10倍の悲劇を生む可能性だってあるのだ。この場合内戦を終結させるという問題の本質を解決しないと何も話は進まない。
 ボランティアと呼ばれるものの中には達成目標の曖昧な短期的視野にたったものや優位者がただ自己満足するためのものも多いように感じる。

 ケビンカーターは自殺した。原因が批判による心の葛藤だったのだとしたらいたたまれない。

世界を見て廻ると色んな考え方に出会い、中にはとんでもない様な事も体験する。
 アフリカの山の中を歩いていた時、一緒に歩いていた現地人が僕の被っていた帽子を示し、“そろそろ俺が被る番だ”と言う。“俺にも被らせてくれないか?”というお願いではなかった。我々の常識では全く考えられない言葉に耳を疑ったが、ここで非常識なのはむしろ僕の方だと気がついた。村人と全てを共有する生活を送る、所有するという概念の無い人達からすれば悪気のない純粋な発想に違いない。
 これは少し特異な例だけれども、こういった経験が身の回りの社会常識やルール、新聞記事やテレビのニュース、そして自分自身の考えに至るまで、“間違っていないだろうか?”と自問して自分なりの客観的思考から論理的な回答を見出す習慣を作った。こんな僕だから社会の中で反発もある。でも考え方や常識に正解はない。これが僕なのだから表現せずにはいられない。

日本人は集団意識の教育と、考える過程よりも答えを重視する教育の影響で自分の意見を論理的に組立てたり自己表現することがとても苦手だ。その教育から生まれる協調性や自己主張をせずルールに従順な性質は世界中の人々に安くて質の良い製品を提供するたくさんの日本企業を支える基盤であるなど優れている点も多い。しかし世界に目を向け始めた日本人は、欧米人を表面的に真似ているのか、心に余裕が無くなった人が多いからなのか、最近は自己表現と身勝手や奇抜さを履き違えている人が多くなったと思う。大切なのは日本人の共生の心を捨てることでは無く自分自身の頭で考えて行動することだ。

 ボランティアが盛んな西洋の教育を受けてきたオーストラリアの友人ジョーダンは援助の話題に対して違う意見だろうと思っていたが珍しく僕と同じような考えの持ち主だった。この話題の意見がたまたま一致したからという訳ではないけれど、彼と話していると面白かった。僕の知っている日本の大学生よりも遥かに大人だ。意見をしっかりと持っているので年齢差を越えて対等に話が出来、今もメールが続く良き友人になった。それに比べて僕達の会話の輪にいた30歳くらいの日本人の男はまるで魅力がなかった。それは英語の能力のせいだけでは無かった。ジョーダン曰く彼の会話は“空虚な会話”だった。これは僕が世界を旅する学生だった頃からずっと思っていた事だが、残念ながら日本人は若者も大人も世界の同世代と比べると幼稚な人がとても多い。それは日本人が自分で考える事をしないからだと思っている。例えば大学生。新聞記事によると今や入学式や卒業式に親がついて来るケースが増えているらしい。精神的にも経済的にも独立せず、親も子供も小学校から進歩がない。鳥は教えなくても数ヶ月で親から巣立っていくのに日本人からは本能すら無くなってしまったのだろうか。今の日本の教育に期待しても残念ながら先は明るくない。日本人はもっと積極的に海外に出て人と議論をするべきだ。そしてその“差”に焦ってもっと自分で考えるようになるべきだ。そうしない限り自分の意見を言わない(持たない)日本人は大人に成れないし、日本外交のように世界の中で存在感の無いつまらない人になってしまうだろう。