ろくでなしのバイクの後始末


 バイクの整備には5日もかかった。他にも用事があったので毎日ずっとやる事も出来なかったし、バイクもボロボロだったからだ。ブレーキのマスターシリンダーは途中で壊れたから中古のぼろい物に代わっていて、キャンプ場に停めている時に勝手に倒れたことがあるからミラーは割れ、荷物を載せていた後ろのフレームは一部折れ、プラスティックのフェンダーは割れ、ナンバープレートとそれを支えるブラケットは振動で無残に割れまくり、ヘッドライトやテールライト、フラッシャーのバルブも振動で切れていた。アルゼンチンで買った中国製バッテリーは丁度旅を終えたと同時にあがってしまい、ボリビアで買ったばかりの同じく中国製リアタイヤは既に山が無くなっていた。
 振り返ってみて1番危機的だったのはカムチェーンテンショナーの不具合だった。チリを走っている旅の中盤辺りからエンジンの頭廻りからノイズが聞こえたり聞こえなかったりするようになっていた。音色やエンジンの温度に依存するような感触から、タペットノイズだろうと信じていた。調整に必要な工具は持っていなかったし、タペットなら直ぐに壊れることも無いから騙しながら走った。そんな話をフビーニョにすると彼は音を聞くまでも無くそれはカムチェーンテンショナーのトラブルでカムチェーンが暴れている音だと言う。分解してみると確かにテンショナーが働かなくなっていた。これはホンダのこの機種ではよくある問題なのだそうだ。カムチェーンが外れたりタイミングがずれてエンジンが再生不能になることを考えると冷や汗ものだった。

業界の中でもホンダのバイクというのはトヨタ車の様な優等生のイメージがある。もちろんホンダにも優れた製品とそうでもない製品があるし、人が作り出した工業製品は必ずいつか壊れる。僕のは中古だったからどんな使われ方をしていたか分からないから尚更いつ壊れてもおかしくなかった。しかし“ホンダなのにこんなにトラブルが頻発するのかよ。”とは旅の途中で困っている時には思っていた。“ホンダだからトラブルを抱えながらも無事に帰って来れた。”という考え方もあるかもしれないが、次回旅に出るときには出来れば慣れ親しんだヤマハのバイクにしたいと思う。ヤマハだったらもっとトラブルだらけで途中で旅が終わってしまうかも知れないけれど、“ああ、このバイクはあいつが開発したものだから仕方ないな。”と、良くも悪くも覚悟と諦めが持てるかもしれない。

 売るときの見栄えを良くする為に、買ったときに前のオーナーがしていた様にフレームは缶スプレーでボロ隠しし、見た目は買ったときと同じくらい綺麗になった。更にフビーニョに連れられて近所のメーター戻し屋へ行く。そう、このバイク街ではできない事は何もないのだ。はじめ良心が咎めたのだがブラジルではそれくらいは当然の事なのだそうだ。アリーネに“あなたが買った時だって戻してあったに違いないんだから気にしなくていいのよ。ブラジル人はろくでなし(サファード)なんだから。”と言われた。16000kmで買って24000km走ったから今メーターは4万kmを越えている。メーター屋が幾つに戻すか聞いてくるので僕が申し訳無さそうに18000と言うとフビーニョが首を横に振って“6000にしてくれ。”と頼んでいる。料金も値切って僅か40レアルにしてくれた。メーターはデジタルなのに自由自在に設定できる。“じゃあ30分後に来てくれ。”と言われ遂に30分後には買ったときより新しいバイクが完成してしまった。アリーネに話すと“これであなたもろくでなしのブラジル人の仲間入りね。”と言って笑われた。

 日曜日の朝、買ったときと同じ個人売買の会場に行き出品料を払って会場にバイクを並べる。言葉が分からないからアリーネを後ろに乗せて一緒に来てもらっていた。他の人達のバイクの値札を参考にしながら値段を書く。買った時が
7300レアルだったけれど、比較すると多分それでも安いくらいだと思ったので大胆にも7300と書く。昼の12時でマーケットは終了するのだがあまり反応がない。やっぱり駄目だったかと思って諦めかけた12時過ぎに客が尋ねてきた。かなり買う気満々に見えたので、7100にすると言うと商談は成立した。そうこうしている時に他にも尋ねて来た人が居た。みんな最後の最後まで悩んで決めているようだ。分割で払うと言うので、帰国日が迫っていたからお金とバイクの受け渡しはフビーニョにお願いする事にした。翌日アリーネの携帯に“昨日のバイクを買いたい。”という電話が数件あったらしい。200レアル値下げしなければ良かったと思ったのには我ながら欲張りで呆れてしまう。
 それにしても
4ヶ月で24000kmも使って僅か使用料200レアルだったことになる。登録料や税金、消耗品代、ガソリン代等を考えても超格安旅行だ。バス旅行などよりも遥かに安い。どれもこれもバイクの名義人になってくれた友人やフビーニョはじめ、売買を応援してくれたたくさんの仲間のお陰。“ろくでなしのブラジル人”になってしまったけれど、そこまでブラジル社会に馴染ませてもらえるくらい仲間に恵まれた事が最高に嬉しい。