宗教観


 サンタクルスの街を歩いていた時から気になっていたのだが、列車の中や沿線の村々にも変な白人の集団がいた。白人自体は何も珍しくはない。ボリビアにも他の南米同様にスペイン系を中心とした白人が少なくない。何が変かと言うと服装や表情の見えない目や仕種、身内だけで行動し、他の人達とは絶対に混じわらないように見える雰囲気が明らかに21世紀の空気から遊離しているのだ。男はサロペットとワイシャツと帽子。女も民族衣装にほっかむりで統一されている。聞くところによると彼等はメノナイト(スペイン語だとメノニータ)と呼ばれるキリスト教から派生した保守的原始教義を持つ、文明社会とは馴染まない独自の生活をする宗教集団なのだそうだ。メノナイトの一派ではアメリカのアーミッシュが有名だが、迫害から逃れたり分派したりして他にも世界中の田舎にたくさん居るらしい。
 ここのメノナイトの戒律もとても厳しい。政治、教育、兵役などボリビア社会、ボリビア人とは一切交わらず、ドイツ語だけで独自の共同体を作り、文明の利器を使わない生活では電気を使わないからテレビも禁止、ガソリンを使う車の代わりに馬車を使っている。全くもって不可解なことが多すぎる。例えばこの列車はディーゼルエンジンで動いているけれど車に乗らない彼らの理念に反しないのだろうか?目の前の親子は他のボリビア人同様にプラスチックゴミをせっせと窓の外に投げ捨てたけれど、車に乗らない環境に配慮した理念(?)とは矛盾しないのだろうか?他のボリビア人に恋をしないのだろうか?思春期の少年達は他のボリビア人の村にテレビを見に行ったり、親に反抗して盗んだバイクで夜の街に繰り出さないのだろうか?
 僕がこの人達の教義を守ったら多分うつ病になってしまうだろう。テレビは見なくて良いけれど、バイクも車も乗れない生活は拷問に近い。完全な平和主義で人と競うスポーツは禁止だからモトクロスなんて論外だ。


 
僕は無宗教だけれど無神論者とも言い切れない。全ての宗教に懐疑的な立場だけれど彼らの心理に興味も強い。それは学生時代の経験から来ている。高校時代、社会科の倫理という授業が嫌でたまらなかった。倫理では世界の哲学や宗教観を習うのだが、女の先生がとても苦手なタイプだった。彼女はクリスチャンで話の端々にその説教が出てきた。
 その頃、どこかの宗教団体に属していた祖母が無宗教の僕の家庭にそれを持ち込もうとして家族関係が荒れていた。宗教という物に憎悪を抱くようになった。
 思春期の僕は家庭でも学校でも荒れた。父親とは高校時代ずっと反目し合い、倫理の授業はボイコットして学年最低点を取り続けた。教科書は表紙と裏表紙を除いて中のページを全部四角くくり抜いて筆箱にしていたから先生に教科書を読むように言われても無駄だった。高校は最後に一度だけその先生に頭を下げて卒業させてもらった。
 大学に行くような学力は無く、浪人して1年間初めて真面目に勉強して大学に入学した。1年目の夏休みに初めての海外旅行ニュージーランド自転車旅行に行ったとき、ある中年の女性から“あなたの宗教は何?仏教徒?”と聞かれた。僕は仏教徒“buddist”の英語の語尾の韻を踏んだ洒落のつもりで“僕は何も信じてないよ。仏教徒じゃなくて科学者(scientist)だよ”と言うと敬虔なクリスチャンの彼女は真顔で“あなたは可哀想な人ね”と言った。きつねに摘まれた様な気分で彼女の言葉の意味を考えた。それから世界の宗教への興味を頭の片隅に持って仏教の中国、儒教の韓国、イスラム教の国々、キリスト教の国々などを貧乏旅行した。
 どこの宗教も興味深かったけれど違和感があった。興味深いのは彼らの心の純粋さ、神の前での謙虚さ、道徳心だった。それは一昔前の日本人が持っていて現代人が殆ど失ったものに近いと思う。違和感があったのは例えばキリスト教では人間が他の動物より偉い生き物とされることだったり、イスラムの不可解な戒律の数々だったり、アラーやイエスや仏陀といった人間の形をした有形なものが崇拝の対象になり、聖書、教会、寺院、モスク、布教活動といった目に見える活動や物が存在することだった。そうしたことは解釈の違いや異教徒間による無用な争い、組織化による権力構造の発生、などなど宗教の本来の目的とは異なる結果に結びつく。僕は宗教心とは心のうちだけにあるべきものだと思っている。

 既存の宗教で僕の考えに1番近いのは日本人が古来から持っていた神道だ。神道には崇拝する対象が無数にある。人の命も蛙の命も同じ価値があり、生きていない石にさえ同等の魂が宿っていると考えるから、すべてに尊敬と感謝の念を持って生活しなければならない。とっても素敵な考えだけれども僕はもっと現実的な人間なのでそこまで謙った人間にはなれない。僕はただ、自分はこの世で小さな存在で、人間の力では如何ともしがたい大きな力が存在することだけは時々意識する。ぼくはそれを神とは呼ばないけれど、宗教を信じる人達はそんなことを信じているのではないかという気がする。今や僕はニュージーランドの女性が言った宗教心の無い可哀想な人ではない。それが長年考えてきた宗教への僕の答えだ。