不法入国


全ての用事が済み、一息付いたところで大事な事を思い出した。チリの国境で、210km離れたこの町に着いたらもう一つ入国管理事務所に立ち寄る様に言われていた。警察官に場所を尋ねて、歩いてそこに向かった。建物は僕がこの町に入った入り口にあった。まず税関(Aduana)窓口でパスポートを提示し、Sico峠の事務所でここに立ち寄る様に言われた旨を伝えた。40代と思われる威圧的な雰囲気の係員にバイクは何処かと聞かれたのでキャンプ場に置いてあると伝えると、彼は立ち上がりスペイン語でまくし立ててくる。町に入った時間を問われ、午後3時ごろと答えたがここに来たのは既に夜8時過ぎだった。彼は目に怒りをたぎらせて僕をにらみつけながら言った。“お前は5時間もチリに不法入国している。こんな奴は初めてだ。俺はお前を今すぐ強制退去させることも出来るんだ。”Sico峠の入管出張事務所でパスポートやバイクの書類のデータは控えられているし、税関の荷物検査も受けた。それなのにもう1度ここで町に入る前に正式な入国手続き、荷物検査を受けなければならなかったようだ。出張事務所からここまで200km以上離れているから自転車旅行の人は同じ日に2つの事務所に寄る事は出来ないし、せいぜい同じ日に行けば良いと軽く考えていた。こんな国境のシステムは初めてだし、スペイン語もよく分からない旅行者なのにチリを代表する役人に頭ごなしに犯罪者呼ばわりされてさすがに腹が立った。英語で釈明をしても英語は分からないと首を振るので必死にスペイン語で説明し反論もした。“出張事務所で説明されたかもしれないけれどそこまで細かいスペイン語は分からない。”すると彼は“いや、お前はスペイン語を十分理解している。”僕、“あなたがもし日本に来てルールが分からないでミスを犯しても日本人は理解しようとするけれど、あなたにはそれが出来ないのですか?”下手糞なスペイン語だったけれど意味は通じたはずなのに彼は答えず、切腹の仕種を同僚にしてみせる。日本の侍の切腹の境地など彼には分かるはずもあるまい。結局パスポートは取り上げられたまま、バイクを取りに帰るように強制された。もう荷物を降ろしてテントを広げてしまっているし、“出張事務所で1度調べられているから2度調べられる意味が無い。”と主張して荷物を持ってくるのだけはまぬがれた。バイクを持ってきても誰もバイクをチェックする事も無く手続きが済んだ。人が多い観光地に長居したくなかったのと、彼に気分を害されたのでチリを早く出たいと思い、ボリビアへ出国のために翌日再び事務所を訪ねた。彼が外に出てきて僕に皮肉な調子で英語で聞いてくる。“ここは有名な観光地なのにお前はもう出て行くのか?”昨日彼は英語が分からない仕種をして僕にスペイン語を強要させたくせに流暢な英語を話す。昨日僕が英語で悪態をついたのも全部分かっていたはずだ。“お前が居るから出て行くのさ。”と言ってやろうかと思ったけれども、ぐっと堪えて礼を言って走り去った。一つの出来事でその人や場所、国のイメージまで印象つけてしまう事もあるけれど、チリにも素晴らしい人がたくさん居るし、彼だって別の場面で出会っていたら実は凄くいい奴かも知れない。“あの人はこういう人だ、あの国はこういう国だ。”と決め付けるのは簡単だし安心する。でも表面に見えない物事や心を理解しようとすることが大事な事なのだと思う。