マカダミアナッツ農園の家族


 アルゼンチンとの国境の町エンカルナシオンの近くに幾つか日本人移住地があると聞いていたので、ちょっと寄り道して覗いてからアルゼンチンに渡ろうと思っていた。イグアスはJICAの日本人や何かのガイドブックに載っているのだろうか、日本人旅行者も多いようだったので、最近の日本の影響の少ないパラグアイらしい違った日本社会があるのだろうかという興味があった。

 脇道に曲がりラパス(LaPaz)という村を目指す。途中追いついたトラックの車体にはスペイン語で日本人名のスーパーマーケットの名前が書かれている。期待して追い越し際に覗くと運転していたのは日本人の顔ではなかった。別に日本人を求める旅をしているわけではないけれど、日本語の文字を見つけるとドキドキする。その文字を書いた主、或いはその祖先が地球の反対側の日本からやってきたそれぞれの歴史や生活に思いを馳せることができるからだろうか。南米に来るまではそんな事は耳にすることも殆ど無かったし考えたことも無かった。

 村の小さなスーパーに入ると確かに日本語の会話が聞こえる。僕の知っているブラジルの日系社会ではもう殆どポルトガル語が日常会話なので、それは驚くべきことだった。小さな日本がこんなところにある、と。そこに子供を連れて買い物にきていた僕と同世代と思われる男の人と目が合いにっこり笑顔で日本語で挨拶を交わす。この人どこで生まれ育ったのだろうか?何をしているのだろうか?僕の顔にははてなマークがたくさん浮かんでいたに違いない。幾つかの短い会話の後、やっぱり笑顔で“良かったら家に来ます?”と聞かれ“えっ、いいのですか?じゃあ少しだけ”と遠慮と興奮が混じって訳の分からぬ返事をしたように思う。
 彼、キヨさんの家はマカダミアナッツや大豆や果物などの農家だった。パラグアイの日系農家としては小規模らしいが、それでも日本の農家に比べればとても大きい。庭で出迎えてくれた1世のおじさんサトシさんがとても明るく楽しい人で、人生のポジティブな面を見て生きている様子が伝わってきて心を打たれた。サトシさんは僕と彼の孫娘ミィちゃんをマツダの古いピックアップトラックの荷台に載せて早速農場を案内してくれた。環境は人を形成するのだろう、日本の街中であんな生き生きとした笑顔を見ることは少ない。家族も皆親切で楽しく、まるで九州の田舎にある友人の実家を訪ねたときの様に初対面の僕を家族のような自然な距離感でもてなしてくれた。新鮮なマカダミアナッツも、手作り日本食も、庭で生っていたパパイヤも、人生初の五右衛門風呂も、その晩最近近くに移住してこられた家族とのシュラスコパーティーも皆最高だった。

 移住と聞くと昔の話の様に聞こえるけれど、今も少ないながらも日本人の移住は続いているようだし、旧東ドイツからは今も多くの移住者があり、大きなコロニアを形成してパラグアイでのドイツ人の発言力を増しているらしい。キヨさんの歯切れが良くて面白い嫁さんキーヨンさんも山口県から最近嫁いで来たのだ。移動手段が船から飛行機に変わり、通信が手紙から電子メールに変わった今では距離感に雲泥の差があるけれど、それでも移住、ましてや開発途上国への移住というのは東京から大阪へ引っ越すのとは比べ物にならない苦労、重みがあるはずだ。そんな現代の移住生活をコミカルに描いているのがキーヨンさんのブログ“南米移住生活”は日本に居ながら南米の今の感覚が伝わる貴重なものなので興味があったら覗いてもらいたい。http://blogs.yahoo.co.jp/kiiyon3yabi/22920425.html

 なんだか居心地が良くみんなの誘惑に負けてその晩は泊めて頂いた。旅の当初、1月末に日本に帰る予定にしていたので、サンパウロで3週間足踏みした遅れを取り戻そうと焦っていた、そんないかにも日本人にありがちな心理状態だったので“もう1泊して、一緒に農作業して今晩はカラオケに行こうよ”というサトシさんの誘いにも“明日みんなで遺跡に行こう”というキーヨンさんの誘惑にもグッと堪えて翌日の午後に農園を後にしてしまったことを旅の途中長いこと後悔していた。もし旅の後半に出会っていたらきっと暫く居座ってしまったに違いない。そんな素晴らしい家族だった。

 会社に行かなくなってから南米に来るまでの2ヶ月間、最初は毎日サーフィンに行けて楽しかった。しかし直ぐに“今頃仲間は仕事をしているのに自分だけこんな事をしていて良いのだろうか。”と猛烈に不安になりだした。当面のお金もあるし自分の能力があれば何処でも生きていける自信があったから、暫く自分を見つめ直すつもりで大きく構えていたはずなのに、罪悪感のある落ち着かない日々だった。週末になって会社勤めの友人と遊ぶことになると、今度は自分が過ごした慣れた時間のはずなのにやっぱり違和感がある。そこには朝から晩まで365日規則正しいサラリーマン生活の延長線の様な時間が流れている事に気が付いた。南米の旅が進むに連れてその不安は急速に薄れていった。何も無い風景、何も無い町、ゆったりと生きる人々、時間は遥かにゆっくりと流れている。しかし怠けて生きているのではない。
 日本人は曖昧な時間を過ごす事に慣れていない。海外のレストランに行って真っ先に店を出るのは決まって日本人だ。ヨーロッパ人の恐ろしく長い食事に呆れてしまった経験を持つ人は多いだろう。そもそも日本では子供のころからボーっとする時間をあまり持たないで過ごす。学校、塾、習い事、宿題に部活などなど時間に追われる。社会人になれば更に厳しい競争社会で、ノルマ、納期、家庭などに追われてますます長い自分の時間を取れない。そうして世界の中で厳格だと言われる日本人の時間感覚が出来上がる。それは素晴らしい事でもあるけれど弊害もある。人が何か独創的なものや考えを生み出すとき、それは静かな時間の中から生まれる事が多い。静かな生活を送る僧侶やヨーロッパの哲学者の中から名言とされるものが多く出てくるし、時間の流れの遅いイタリアからは多くの独創的なデザインが生まれる。ここ南米にもそんな時間が流れている。段々とそんな事に気付き始め、パラグアイを出てから少しずつ帰国の日程を伸ばして、結局3ヶ月伸ばした4月に帰る事になった。慣れない事だから時間がかかるけれども、少しずつゆったりした時間にも慣れて、両方の良さを持った新しい人間に変わって行きたいと思っている。 

 家族と家の中に居ると本当に九州に来たような錯覚があったけれども、外に出るとやっぱりパラグアイに居ることを思い知る光景もあった。農園で働く労働者が怠けないように木陰で昼寝しながら彼らに気を遣いつつも注意を払うサトシさん。家計を助けるためなのだろう、無表情でマカダミアの皮むきと選別の仕事をする小学生くらいの年齢のパラグアイ人の女の子。そして夜、生まれて初めて撃たせてもらった散弾銃。反動がずっしりと肩に重かった。落ちた薬莢を指差し“これが落ちてると威嚇になるんだよ”というキヨさんの説明の意味するところ。パラグアイで生きるということはそういった社会を日常として受け入れて強く生きていくということでもある。家族の笑顔は、だからなおさら輝いて見えたのかもしれない。きっとまたいつか今度はあの笑顔の誘惑に負けに行こうと思っている。