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オクラの分を挽回できる僕ならではの仕事も見つける事ができた。滝野沢優子さんが旅を終えてここに残していったオートバイが暫く前から動かなくなって放置されていたのを修理するように依頼されていた。こちらは得意分野。オクラ収穫と違って時間があっという間に経ち夕食も忘れて直した。20歳の好青年リンタロウは大喜び、おじさんのコッピンも庭でノーヘルで激しいドリフトをして僕達の喝采を浴びた。夜中にはツネさんの弟カツヤさんと近くまでバイク2台で意味も無く流しに行った。滝野沢さんのバイクは今も当時のままカリフォルニアのナンバーが付いていてブラジルでは本当は今は走れない。僕もカツヤさんもいい歳しているのにノーヘル、サンダルで、バイクに乗るのが新鮮で嬉しくてたまらなかった高校生のころの様な感覚で走った。バイクが直った事が知れると今まで話した事がなかった人からも声をかけてもらえるようになった。会社を出たら一般の人の役に立つ技術が自分には何も無いのではないかと思っていたのだが、思わぬところでそれを発見し、喜んでもらえて彼ら以上に多分僕が一番嬉しかった。
後日、今度は作業場の隅に忘れ去られたように放置されているポケバイの修理を依頼された。ポケバイは触った事もないし日本製ではなかったから動くようになるか自信は無かった。作業をしていると学校から帰ってきた10歳のショーが目を輝かせて“タカシいつ直る?”と初めて声をかけてきた。翌日僕が農作業から昼食に戻ってくると、いつもは違うところで食べているのに僕の前に席をとり“午後はポケバイの作業してくれるよね?”と催促してまとわり付いてくる。こんな純粋な期待は絶対に裏切れない。“直すまでユバを出発できないな”という強いプレッシャーを感じた。無い部品は壊れた草刈り機から流用もした。後日エンジンが目覚めた時にはとてもホッとしたし、嬉しくてショーが帰ってくるのが楽しみだった。ショーも他の子供達も大人達までもポケバイに跨ったり、人が転ぶのを腹を抱えて笑う大盛り上がり。ユバに出会えた幸運に心から感謝した。
多分そんな出来事があったから僕に気を遣ってくれたのだろうか。仕事の後、リンタロウが3km先にある沼に釣りをしに行こうと誘ってくれた。そこは日系人の人が経営していた釣堀だったが今は営業していなかった。そこでは鶏肉をエサにしてクロコダイルも釣れるらしく釣堀の冷蔵庫に入っているクロコダイルの肉を見せてくれた。木の枝から鶏肉を水面ぎりぎりにぶら下げておくと引っかかるので、あとは棒で殴って殺すのだとか。釣りは彼がピアパーラという魚を1匹釣っただけだったが、釣堀の持ち主の日系人のおじさんと牛飼いをしているリンタロウの友人達と合流してシュラスコ、ピアパーラの刺身、マンジョッカの揚げ物、おにぎり、ビールたらふく、という超豪華な即席パーティーになった。平日の夜にこんなに素敵な夜はサラリーマン生活では味わえない。
別の日にはいつも笑顔のヒョウさんがミランドポリスの町に飲みに誘ってくれた。奥さんと100周年記念番組に向けて長期の泊まりこみ取材に来ていた面白いNHKスタッフ3人も一緒でとっても楽しかった。誰かが“ヒョウさんどうしてそんなにいい人なんですか?人の悪口言った事とかないんですか?”と尋ねると、“そうだなあ、悪口言った事無いねえ。”と真剣に言う。“小さいころ廻りの大人から人の悪口言うようになったら死になさいって言われて育ったからねえ。”ヒョウさんのみならずユバの人を見ているとこの話は本当だと思う。
怒ったり、罵ったり、けなしたり、馬鹿にしたり、陰口をたたいたり、人を見下して家庭や会社や学校や社会での自分のポジションを必死で守り、のし上がるのに精一杯な現代社会の人達とは全く違う価値観を持って生きている。助け合い、尊敬しあって生きる事。それはつい最近まで日本でもあちこちで見られた光景なのにどこへ行ってしまったのだろうか。日本人の僕が、ユバの人達に日本人の心、美徳を教えてもらうのは嬉しくも悲しくもあることだった。
心ばかりではなく日本の伝統文化も体験させてもらった。小学生以来になる餅つきでは、餅をこねる役の若い女の子に“もう1歩前に出て腰を入れて!あと10回!”と手厳しい指導も受けた。“ユバは世界で一番餅つきする場所だよ”と言う通り、みんな手馴れたものだ。近くの日本語学校でツネさんの娘で日系4世のアグーが開いたお茶会に参加し、生まれて初めてお茶の作法を教えてもらった。ここは日系人が多いから野球も盛んで、皮肉な冗談が得意なコウジロウさんに誘われて近くの野球場で地域の野球チームの練習に参加させてもらった。少年野球の経験があるから、これなら少しは汚名返上できるかと思ったけれど、感覚は全く体から失われていて自分にがっかりするだけだった。しかしどれもこれも忘れ得ない楽しい思い出になった。
最後にお別れするときは皆が食堂から出てきて見送ってくれた。女性陣が夜に食べるようにお弁当まで持たせてくれたのはびっくりしたし、とても嬉しかった。本当はもっと居たかったけれど、長居すると旅立てなくなってしまいそうだったから辛い決断をした。村を出るころには既に夕闇迫っていた。サンパウロまで残り600km。ヤマハの仲間達にもう直ぐ会える楽しみと、旅が終わる達成感と寂しさ、ユバとお別れする悲しみ、が入り混じった胸の中。ボトゥカトゥ(Botucatu)という町まで遅くまで走り最後の夜を迎えた。人と一緒だった後の1人の夜はやっぱり寂しい。また今度、バイクが壊れるころに修理をしに行きたい。ユバのみんなありがとう。